2013年2月28日木曜日

理想

オープンでいられる。

ストレスが完全にない。

ストレスで自分をコントロールしない。

プレッシャーをすべて受け流せる。

気持ちよく過ごせる。

それだけで、いい。

2013年2月26日火曜日

チャクラで生きる

キャロライン・メイスさんの本

チャクラで生きる

ようやく読み終えました。

最近は、読んだら本は捨てるようにしているのですが、思うところもあって、持っていたいと思いました。

チャクラって、目に見えないもので、キーワードは見る視点によって変わるものです。

そうだとしても僕にとって、メイスさんの視点は、他の人の視点、解釈、キーワードをより理解あい、深めてくれるものだと確信があります。

チャクラと聖典の癒し

これが、この本で内容がぐっっと深まる体感!

最後まで読むと、今までにない体感を味わいました。

エネルギーワーク、チャクラについて勉強していている人も、そうでない人でも、読んでみて欲しい本です。

僕も、僕を知るために、また読みたいです。

ふと思い出す友人の顔

そういえば、ずっと忘れていた。

小中学校が一緒だったTくん。

疲れて、キャロライン・メイスさんの本を読んで。

なぜだか頭に浮かぶので、Facebookを検索してみました。

彼の名前はおぼろげに思い出すだけ。

彼の友人の欄に、同級生の名前が挙がっていて、確信が持てました・・・。

捨てきれないであった、昔の記憶。

もしかしたら、彼も僕のことが頭に何故かさっきはよぎった・・・かもしれない。

学校。

正常であってほしいところですが、そんな神聖さが実は無かった場所。

自分の夢が追えて、現実にもやがかかっていた場所。

僕は、学校が好きな反面、好きじゃなかったです。

傷つけることは、一回ありました。

でも、傷つけることが、こんなに苦しいことなのだと知って、それが嫌でした。

僕は、人をいじめると、些細なことでも自分に返ってくることを感じます。

Tくんは・・・

同級生なのに、僕よりも身体が大きくて、優しくて、家族想いで、負けず嫌いな子供だと僕の中には印象があります。

彼の親は離婚してしまいました。

お母さんの不倫があったことは・・・

中学に上がった時点では知らなかったです。

普通の少年だったTくん。

でも、彼の心は排他的になり、回りを傷つけるようになりました。

善意は特定の知人にしか向けず、それ以外は、仲間ではなくなっていた。

傷ついた人をみると、癒したくなります。

でも、僕も精神的に追い詰められていました。
エリートが、自分の自虐性を見せたがらないように、僕は自分の綺麗な部分以外は誰にも汚れた部分や、自分が低能だということを、無知さを見せたがらない性格で、フラストレーションが溜まっていました。

ストレスに耐性がなく、はけ口もなく・・・

ドラッグとかタバコとか、アルコールは手を出しませんでしたが・・・

TVゲームのある同級生の家に上がり込んでは、ゲームをする中毒にハマっていました。

そうすることでしか、まともでいられない。

そう思っていました。

年齢が上がる度に、本当の自分を誰にも見せたくない。

そんな気持ちばかりが積もっていく苦しみ。

学校は、自分を隠す場所になってしまいました。

あの時・・・

救われたかった。

自由を味わいたかった。

でも・・・

ただ時間が過ぎ、精神的に大人になれなくなってしまったのです。

子供のまま。
身体は大きくなるのに、心は子供のまま。

あの頃の傷ついた感情を癒し、成長させて生きたい。

そう・・・
願います。

確かになんにも無かったけれど、意味はあったと思うのです。

クリア出来なかったのなら、そのボーダーラインは今もあります。

それを乗り越えて行くことが、今必要なんだと思います。

僕の癒しは、自分と繋がる魂を癒してくれるからです。

2013年2月10日日曜日

レイキもすごい

今日、レイキ講座に行きました。

レイキを通して、学ばなくてはならないと思うことが体感できました。

一度、離れていましたが、これで再開できると思えて嬉しいんです。

レイキの技法はベーシックですが誰でも簡単に出来るようになっています。

僕のエネルギーワークの方向性が、決まってきたように思います。

2013年2月5日火曜日

すごい!

僕が占って、すごい!

と言われる時、違和感があります。

なぜ、この人は「すごい」と言っているのか?

ふと思うのは、その人と僕が共感覚状態にあるため。

というのがあるのだと思います。

同じ時を過ごすと、どちらが先ということでもなく、先導するものと感覚と脳が自然と共生し始めます。

同じものをみるので、僕がいるために、元型の「すごい」という状態を共有した時、相手は僕が使う言語を、自然と使ってしまうのだろうか?

それぞれのビジョンを見ているはずなのに、同じものをみるのなら・・・。

楽しいこととか、素晴らしいものとか、心地よさも同じく、感じることが出来る。

存在するものは、そうなのかな?

なんて思います。